こんにちは、ゆうままです。
今日は、ちょっと重く受け取られそうな話を、わりと軽めに書いてみます。
我が家の3人の子供は、全員、不登校になったことがあります。順番に、それぞれの理由とタイミングで、学校に行けない時期がありました。
でも正直、私自身は「不登校になったこと」自体を、そんなに気にしていなかったんです。元々そういう性格で、神経質になるタイプでもなくて。気にしていたのは、別のことでした。
3人とも、順番に不登校になりました
最初に学校に行けなくなったのは、第一子のゆう。次がよう、最後がみう。3人それぞれ、別の事情とタイミングで、学校という場所が合わない時期がありました。
世間的には「3人とも不登校」というと、なかなかインパクトのある状況に聞こえると思います。私もそれは自覚しています。
ただ、実際にその状況にいた私は、想像されるほど深刻に落ち込んではいませんでした。「ふーん、そういう時期なんだな」くらいの距離感で受け止めていた、というのが本当のところです。
母親的に、不登校はそんなに気にしていなかった
「冷たい母親なのか」と思われるかもしれないので、ちゃんと書いておきます。
私はそもそも、子供の状態をいちいち深刻に受け止めるタイプではありません。元々、神経質でもないし、心配性でもない。「なるようになる」と思っているところがあります。
だから、ゆうが学校に行けなくなった時も、ようがそうなった時も、みうがそうなった時も、「あー、行けないか」「じゃあ家にいる時間をどう過ごそうかな」くらいの感覚でした。
SNSや雑誌で見かける「不登校で親が壊れてしまう」という話と、自分の感覚は、けっこう離れていたと思います。
「立ち直る」という言葉も、あまり好きじゃない
不登校に関する記事や本を読んでいると、よく「立ち直る」という言葉に出会います。「不登校から立ち直った話」「立ち止まっていた時期を経て」みたいな表現。
でも、私はこの言葉が、あまり好きではありません。
だって、子供たちは「立ち止まっていた」わけじゃないですから。家にいる時間も、ちゃんとそれぞれのペースで何かを感じて、考えて、過ごしていた。「不登校=止まっている状態」と決めつけて、そこから「立ち直る」という構図が、私の感覚にはどうしても合わなかったんです。
うちの3人は、ただ「学校という場所が合わない時期があった」だけ。立ち直るも何も、最初から倒れていない。これが、私の中での感覚です。
本当に気にしていたのは、ひとつだけ
とはいえ、私もぜんぜん不安がなかったわけではありません。気にしていたことが、ひとつだけありました。
「将来、子供部屋おじさん・おばさんと言われるような、大人の引きこもりにならないか」
これだけは、頭の片隅にずっとあった。
不登校自体は別にいい。学校が合わなければ、家で過ごせばいい。でも、それが20代、30代になっても続いて、社会との接点がないまま、ずっと家から出られない大人になってしまったら——それはちょっと、別の心配だな、と。
「学校に戻ってほしい」というよりは、「いつか自分で社会と関わる手段を見つけてほしい」という気持ちのほう。私が見ていたのは、目の前の不登校ではなく、もっと先の未来でした。
だから、目の前のことには騒がない
気にしていたのが「将来の引きこもり」だけだったので、目の前の不登校に対しては、わりと淡々としていました。
「行けない日は家でゆっくりしてていい」「無理に学校行かなくていい」「ただ、家の中でも何かしらの世界とつながっていてくれたら嬉しい」——そういうスタンスで、3人それぞれと過ごしてきました。
私が騒がなかったぶん、子供たちも「家にいることへの後ろめたさ」をそこまで強く持たずに済んだのかな、と今は思います。少なくとも、家の空気はそんなに重くなかったはずです。
でも、学校には行けるなら行ってほしい
誤解されたくないので書いておくと、私は「不登校が悪い」とは思っていません。でも、「可能な限り、学校に行ってくれることはいい事」とも思っています。
学校という場所には、家庭では得られない経験がたくさんある。友達、先生、集団の中での揉まれ方、給食、行事——どれも、家にいるだけでは代わりに用意できないものです。社会と関わる練習の場として、学校はやっぱりよくできた仕組みです。
だから、行ける時は行ってほしい。行けない時は、無理せず家にいてほしい。それを、子供たちのペースで決めてくれていい。
そういう、ゆるい構えで20年やってきました。
同じ立場のあなたへ
もしお子さんが今、学校に行けなくて、あなたが不安に感じているなら。
20年、3人を育ててきた私が伝えたいのは、こういうことです。
不登校自体は、そこまで重く受け止めなくていい。
家にいる時間は、長い人生のごく一部の時期です。子供たちは、家にいる間にも、ちゃんと自分のペースで成長していきます。
もし不安があるとしたら、それは「不登校の今」よりも、「未来に社会と関われるかどうか」のほう。それなら、目の前の不登校に振り回されるより、ゆっくり「将来の社会との接点」を一緒に探してあげるほうが、たぶん本人にも届きます。
少なくとも、私はそう構えています。